雨が降ったり、止んだり、はっきりしないお天気。
小雨が降ってきて、年中さんと年長さんがお部屋に入った。
「雨、止んで!」という気持ちでテラスで待っていると、
雨が止んできた。
他の学年は、プールの準備に入ったので、
年少の子どもたちは、「やった!」とばかりに、虫取り網を手に取った。
セミの声を頼りに探すも、なかなか年長さんのようには捕まえられない。
「先生、取って!」とあちこちで助けを呼ぶ声が聞こえる。
と、HくんとYくんが、鉄棒の上に網を立てて、木にひっかけている。
「どうしてるが?」と私が聞くと、
Hくんが、「こうしておいたら、セミが入ってくるが!」
Yくん「そして、捕まえるが。」と二人でニコニコしながらいう。
さすが男の子。
「そうか、すごい、よく考えたね。」というと、
「先生見張っちょって。」と言って、その場を離れていった。
少しして帰ってくる。
網をのぞき、「セミ、入ってないね。」というYくん。
「じゃあ、上に行って(大型遊具のすべり山の上)取ってこようか。」
とHくんが言って、二人はまたセミ取りをはじめた。
そして、お昼寝の時間。
みんなが寝付いて静かになってきたころ、
ロッカーのところで、何かガサゴソと音がして、
急にHくんが「セミがあばれてる!」と起き上がった。
私が「どうする?」と尋ねると、
二人は「お家に帰す。」という
そこで、そっと窓をあけて、放った。
「バイバイ。」という二人。
その様子を見ていたRちゃんが、
「セミも、お家に帰れてよかったね!」といった。
子どものすてき。
<考察>
音は、私たちのまわりにあふれていて、
そのほとんどをやり過ごして暮らしている。
特に、都会では、全部の音を真面目に聞いていたら、
大変なことになるだろう。
そして、私たちは、ある特定の音を聞こうとして聞く。
友だちの声、先生の声、お母さんの声。
このエピソードでも、セミ取りをするために、
子どもたちは、音から方角や位置を特定しようとしている。
私が注目したいのは、
お昼の時間、セミの音に、ぱっと反応を示したHくんの姿である。
それは、やってきたものであり、Hくんの耳が捕まえたものである。
「キャッチ」することの中味には、セミへの思いの連続性があり、
本人の意志と関係ないタイミング(寝ている→捕まえようとしていない)
で起こったその出来事(セミが音を立てる)に、
即座に反応して、かかわりの心を持とうとしている、ということである。
なぜ、この場面に感動するかと言うと、
今の学生(つまりこれからの保育者たち)に、
この能力がびっくりするほどない子が多いからである。
自分の今見ている世界、見たい世界にのみ、反応を示す。
それで、何が起こるかと言うと、
自分の四方を囲む子どもの声をキャッチできない、
四方を囲む子どもの声から、
援助しなければならない声をキャッチできない,
ということになるんである。
ゲームしかしてないからか?
メディアづけの生活だからか?
いつもすることを決められて、
正しいみたいな答えばかり求められてきたから?
私たちは、今、未来の保育者を育てている。
自分の興味・関心で、物事を切り開き、
周りの情報をキャッチし、自己責任において世界と出会う、
それが遊びと保育である。
セミを取れないのは、誰のせいでもない。
自分が取れいないと思うところから、試行錯誤が始まる。
遊びが未来の保育者を育てている。
保育者が育たんかったら、これから困るね。
遊びのすてき。