ご縁というのは不思議なもので、
東京にいたときから、何故か私は大学の授業で「保育内容 健康」を担当してきた。
この内容の一つに、安全教育として、
「リスク」と「ハザード」の問題を取り扱うのだが、
その実例として、「大型遊具で鬼ごっこはしない」ということを、
ながらく言ってきた。
「捕まる―捕まえられる」に、意識が集中することで、
思わぬ事故を招くからである。
ところが、
先日、年長で関わりの深かった皆さんに、
鬼ごっこに誘われた。
そのエリアは、大型遊具限定であった。
はははは。
そして私は鬼になり、「10数えろ」と言われて、
クライミングの急斜面の上で数えている間、
彼らは、至近距離で私をからかうように眺め、
「10!」になったとたん、
まるで特殊部部隊のように、さーっと滑り降りていった。
そういうわけで、私の手は、無様に宙を泳ぐだけであった。
ちくしょー。
そういうわけで、毎日、毎日、
脱走場所としてそこを熟知している場合には、
むしろ、刺激的な格好の鬼遊び場所になる、というわけだった。
何事にも例外はある。
一般論としての「ハザード」の場所も、
子どもの技量との相関で「リスク」に代わるという、
よき事例であった。
子どものすてき
<追伸>
この鬼遊びをするとき、
彼らは、私に矢継ぎ早にこういった。
「場所は、ここの緑(人工芝)のとこだけ。
5秒たつまでタッチ返しなし!
一人ねらうのなし!」
誰かを狙い打ちしようと目論んでいた私は意義を唱えたが、
多くのトラブルを通して、
それぞれの快適を模索してできたルールなのであろう。
それを、ルール違反最高峰の彼が言っていたことが、
私は、何より嬉しかった。
世間では、やっと校則について、見直す動きが出ている。
そもそも、人権を無視した校則が、校則として独り歩きし、
印籠のようにそれを振りかざす自分に気づきもせず、
子どもを傷つけていることをもろともしない組織の在り方には、
絶句する。
遊び保育を営む幼児教育は、ルールそのものの価値を問い、
吟味できる唯一の場である。
もっと、広がらん?
遊び保育。