10月31日。
「オシロイバナも、もう限界かな」と、東のお花畑の手入れを始める。
色水遊びに、種取りに大活躍のオシロイバナ、ほんとうにありがとう。
しかし、今年はよくはびこったね、と掘っていると、
な、なるほど。すごい球根ぶり。
出てきたときは、いも風で、形は人参で、洗った色は大根みたい。
こりゃ、強いわ。
私が持ってきたちょっと大人風のスコップに魅かれてきたKくん、2歳。
畑の土をすくい、「これ、どこにおく~?」と尋ねてくる。
「う~ん?」どこでもないので、返事ができない私。
「これ、どこにおく~?」
「う~ん?」
のやりとりがしばらく続く。
するとKくんが、畑の外へ「ここ~?」と出そうとする。
「ぬわ~、いかんいかん、そこやない。」
すると、別の外へ「ここ~?」と出そうとする。
「いかんいかん。」と私。
教育者モード皆無。ごめん、Kくん。
で、適当に、畑の中の別の場所を指して、「ここ。」というと、
納得したような笑顔で、「はい、」と土を移す。
あ、そういう気持ちなのね。お手伝いというか仲間というか・・・。
ありがとう。
誰かが来て、去って行って、Kくんはずっとここにいる。
その間に、少々誰かとスコップの取り合いをし、
さなぎが見つかって、みんなで大騒ぎし、
幼虫が見つかって、大騒ぎし、
次々に掘り出されるオシロイバナ芋が注目され、
球根磨きが流行ったりする。
Y先生が、「ホールで何かおもしろいことするみたいよ、」
とKくんを呼びにきた。
聞く耳持たないでござる。
なんか夢中だもんね。
そうでしょうね。
しばらくしてからの、もう一度のプッシュにも、
聞き耳持つわけないでござる風。
まぁ、2歳ですからね。
こんなのもいいんじゃないですかね。
ということで、さらに一緒にいる。
ちなみに、私は全然相手をしていない。
パイナップルセージをどんなふうに剪定しようかとか、
球根め、取れないじゃないか、とか、
何植えようかなぁ、とかそんなことを考えている。
ホールの遊びが終わって、「もう、ごはんだよ」とY先生が呼びに来た。
タイムリミットか。
「よし、Kくん、まみこ先生も終わるき。」
しかし、いやだと終わりたくないKくん。
「いかんいかん。ほんならまみこ先生、Kくんの給食もらうで。」
というと、「それならば終わろう」ということで終わった。
次の日の朝、登園してきたKくんに
「Kくん、昨日はありがとう。」と声をかける。
ありがとうという出来事はないのだが、しかし、一緒にいた特別な時間は心地よく、
ふとそんな言葉が出る。
すると、お母さんが、「とっても楽しかったみたいです。」
とご存じだった。
そうか。
印象に残る出来事だったんだね。
その日、いつもお弁当前に最後まで外で粘って、最終連れて行かれるKくんが、
その日は、これをここまでやったらね、と自分でおしまいをつけたそう。
ふーむ。
何かが、よかったに違いない。
で、Y先生はあのときのKくんを想い起し、
「とても無心だった」と・・・。
なるほど。
確かにそうだった。
そして、私が無心だった。
(まぁ、せんせいじゃなかった。)
「先生」という存在がKくんに向かってこず、
ただ、畑という空間を二人で共有したこと。
これが、きっとすごく特別なことだったに違いない。
めったにないことが引き起こす豊かさ。
今日は、Tくんを交えて3人でちょっとだけ電車ごっこしました。
笑い合う私たちには、確かな親近感が・・・。
価値を求めないところから生まれる豊かさ。
教育的観点からいえば、逆説的になってしまうけど、
ギュッと抱き留めておきたい、
子どもとのすてきです。