今、Nくんにとって大事なことは、縄跳びをほぼ全部取って、
足漕ぎ三輪車の取っ手にかけ、
「縄跳び屋さん」とか言いながら、園庭を動き回ることである。
当然、クレームが出る。
「縄跳び屋さん」とか言いながら、絶対に渡さない。
取っ手にずらりと並ぶ縄跳びたちは妙に圧巻で、
思わず笑いが出る。
すると、彼も笑う。
なんてかわいい笑顔かしら。
それでこの日、Rくんが、「貸して」と言うが、
「いかん」と即座に拒否するN氏。
「貸してくれない。」と私に訴えてくる。
「うーむ。
貸してくれんそうね。
こんなにいっぱい持ってるけどね。
一つくらい、いいんちゃう?」
とN氏を見るも、断固たる拒否を示す。
まぁ、分からんでもない。
彼には、何やらこの格好に充足感があるのだろう。
春だから、何かを埋めたいのだ。
私の膝でモニョモニョしているRくんに、
「いくつ貸してほしいの?」と聞くと、
「うーん。3こ。」という。
「そら、無理やろうね~。」
とつぶやくと、元来、R氏は大変シワイ性格なので、
再度、N氏にアプローチに行った。
そこで私の頭には警報が鳴る。
ここで、おそらくひっかき、かみつきだな。
だが、Rくんは、断られたにも関わらず、
実ににこやかに遊び始めた。
連れだって足漕ぎ三輪車に乗り始める。
だが、私はだまされるか、と思っていた。
過去一年の統計によると、
彼らは必ず、問題を蒸し返して喧嘩するはずである。
その結果は、惨憺たるものであることが多い。
そこまですんなや、的なね。
そういうわけで、私は危機管理として距離を取りながら、
彼らに気づかれないように見張る。
おっ、遠くに行くぞ、これは間に合わん、
と近づく。
私の人影にはっとした二人だが、すでに、腰で押し合いをしていた。
「うえぃ、うえ~い、そこやろ、そこ。
ひっかくなよ、かみつくな。」
と声を荒げると、しゅ~んと風船がしぼむようにやめた二人だった。
だって、あなた方連日ですものね~。
Rくんが、「貸してくれない。」とつぶやく。
「まぁまぁ、待ってみようよ。」と声をかける。
それで、なぜかまた仲良しそうに、連れだって行く。
子どもって、なんでしょうね。
そうこうしているうちに別行動になったので、
いったん、見張りをやめた。
次に見たときには、N氏が足漕ぎ三輪車に乗っていたが、
縄はなかった。
「あら?貸してあげたの?」と尋ねると、
「ううん、」と言った後に、
「~に、一つ、貸してあげた。」と答えた。
「そうか、えらかったね。喜んだろう。」と声をかける。
おそらく興味を失って、縄はやめたのだろうが、
その前に、誰かに「貸して。」と言われたときに貸したのだろう。
私は、なんとなく彼の独り占めする(土佐弁で「がめる」)行為を、
大切にしたいと思っている。
取っ手いっぱいに埋める縄の充足感。
これは、今の彼に必要なものである、おそらく。
「みんなのものだから、仲良く使いましょう。」
「独り占めはよくありません。」
「一つくらい、貸してあげたら?」
この当たり前の言葉は、時に無力である。
独り占めしたい気持ちとその先に何が起こるのか知ることが大事である。
独り占めの自己主張は喜ばしきパワーであり、
実際、独り占めし続けることは大変である。
本人も重々承知だからである。何がいいのか、悪いのか。
それで、「やっぱり、いかんですよね。分かりました。」と折り合いをつけると、
社会的に認められるし、もう、社会と闘わなくて済む安心が得られる。
このバランスこそ、社会で生きていく楽さを作る。
とにかく、幼児期の育ちは緩やかでありますように、
本人の心が動いて、物事が進みますように。
子どものすてき。