人が自然を愛するところには、その人それぞれの原風景がある。
私の場合は、海とれんげ畑である。
私が小さい頃、土佐道路はなかったし、サンシャインもなかった。
田んぼのあとに、ただただ一面にれんげが咲いた。
私はそれが大好きで、友だちと毎日お花摘みをして過ごした。
このとき、その幸せと共に、強烈に覚えていることがある。
それは、雨上がりの日だった。
いつものようにれんげ畑を走っていて、どぶんと、
水たまりに思いっきり浸かってしまったのである。
その気持ち悪さ。
靴下がぐしょぐしょになって、もう、ぜったい嫌!
と思ったことを覚えている。
それ以来、目は行く先の水たまりを探すようになった。
海でも、似たような記憶がある。
母の兄が土佐清水市に住んでいて、
夏はいつも、いとこたちと岬の海で泳いだ。
あるとき、あの岩まで泳いで行こう!
と決めて、泳いでいった。
ところが、
あと、ちょっと!あともう少し!
というところで、必ず大波が来て、何度ものまれた。
げほげほ言いながら、それでも従妹と何度も挑戦した。
しかし、あほみたいに大波が来てあっぷりと沈んでしまい、
とうとう、あきらめるに至った。
そのとき、黙って従妹と見つめ合ったことと、
その岩をじっと見つめていた自分をはっきりと覚えている。
どぶりと沈んだ瞬間もね。
今、この記憶に行きあたった時、
すくすくの森にいる子どもたちを思う。
自然のなかにどっぷりおるということは、
快と不快がセットなんだね。
おもしろいと怖いがセットで、美しさと気味悪さがセットだね。
両方が身体に入るね。
前に、忘れ物をした子どもと一緒に、5人で森に入って、
わんぱくの森で、なんか連想うそっこ話で盛り上がってたら、
急に子どもたちが、
「ねぇ、置いて行かれるかもしれん、はよう帰ろう。」
と言いだし、あり?そうなの?と思って帰った覚えがある。
両義性に身を置くことこそ、
意味があるんだね。
わかくさの子どもたちが、たくましく自然を愛せますように。