保育者として、子どもと過ごすようになって、
わかったことがあった。
子どもといっても、
実に様々な感性のタイプがある。
この世界をどう感じるか。
そんなときに、ちょっと、他の子どもよりも、
より直感的、動物的な子たちがいる。
こうした子のうち何人かは、年長になるにつれて、
とてもとても恥ずかしがり屋になることがわかった。
そんなとき、私は、申し訳ない気持ちになる。
例えば、一本のサインペンがあるとしよう。
それは、われわれにとっては、描くものである。
もっと言えば、書くものでもある。
しかし、彼らにとっては、それはじわーっとインクが出てくるものであり、
バンバンと紙に押しつぶすとおもしろいものである。
靴箱は、ジャンプ台であるし、
窓枠はよじ登って、くぐるものである。
しかしながら、人間文化は、それを許してくれない。
彼らはどこかで、日常的に、自分の感性では、
この世界はままならないことを学んでいく。
何がよくて、何が悪いのか、自己判断する前に、
他者から制止されるというかたちで、
この世界を学んでいく。
だから、いろんなことに対して緊張する恥ずかしがり屋さんや、
物静かな人へと変わっていくのである。
彼らは、小さな子どもでありながら、苦労人である。
そんな姿を見ていて、
なんとなく、とてもごめんねという気持ちになる。
大人になって、個性的ね、と言われる人や、
まさか、こんな人になるなんて意外!
とか、そんな人たちは、子どもの頃、とても静かで、
恥ずかしがり屋さんだったのかもしれない。
学校文化から解き放たれて、自由になったのだ。
この世界は、けっこう大変。
子どものすてき。