園長ブログ

子どもと咲く花

保育の醍醐味は、なんといっても先生のものです。

毎日がとても新しくて、きらきらしています。その点、園長といえばお花の世話をするか、えらそうにするか…。

けれど、決まったことがない分、ゆったりとここにいて、あの子、この子に出会えます。

あいまいな存在であるからこそ出会えるあの子のすてき、この子のすてき。

きらりと光る子どもたちの姿を心に留めておきたくて、こうしてコラムを書いてみることにしました。

子どものすてきが、どうか、みなさんに届きますように。

2015.12.20

真ん中まで ・・・年中児

 

お父さんたちが整備してくれた森で、

ガラガラドンごっこをした。

 

驚かしっこというものは、双方の力量で決まる。

幼児の場合は、驚かす方は全く未熟であるので、

驚かされる方が、芸術的でなければならない。

というわけで、ことごとく驚かされる大人たちが素人であったため、

子どもの矛先は、仕掛け人の私に集まる。

私ならば、満足のいく驚き方をしてくれるであろうというわけだ。

仕方あるまいの~。

というわけで、一緒に隠れていた私は、役割を代える。

私はわざとらしく、大きな溝にかかった丸太を指さし、

 

「あ~、こんなところに橋がある。

 まさか、こんなところにトロルなんていないよなぁ」

と大声を出す。

 

したらば、あっという間に10人ほどの、トロルが溝に集まる。

 

私はまだ、名演技を続ける。

「いやいや、まさか、こんなところにあのトロルがいるわけない。

 だけど、なんでこんなに怖い気持ちがするんだろう。」

 

クスクスと笑い声が聞こえる。

 

「いやいや、きっと大丈夫。

さぁ、この橋を渡って、きのこを取りに行こう!」

と足を踏み出すと、

そっこう「ばぁぁ~!」とおよそ12人の丸見えトロルたちが驚かしてくる。

私は、「早いよ、少し。」と思いながら、

「きゃぁ~ぁ~!!」と逃げる。

 

子どもたちはすっかり気に入って、何度も私に「もう一回!」と言ってくる。

そのたびに、私は吉本新喜劇のように、わかりきった展開をわざとらしくしかける。

 

何度目かで、

「次は、きっと真ん中までは行けるに違いないぞ~。」

というと、真ん中まで待つトロルたち。

この予定調和。笑える。

 

前方を阻止するもの出現。

「邪魔なんだよ。」と素でいうと、笑いが起こる。

この予定調和。

 

最後は、「トロルがいても渡る!!」「しかし、渡る!!」といって、

もみくちゃになりながら渡った。

 

お互いがごっこの世界で、心を合わす。

この心地よさ。

 

子どもとわたしのすてき。

 

 

追伸

 ここで、少し専門的な話をしてみよう。

 この、私と子どものやりとりは、日常のある一場面であり、一過性のものであり、いやぁ、楽しかったね!とっても!で終わるものである。しかし、また同じ状況がやってきたときに、子どもたちは「まみこ先生、あれやろう。」と言って来るだろう。そのとき、子どものなかには、記憶した出来事を再現しようとする知性が働いている。おもしろかった出来事があって、それを再現し、再構成しようとするところに、実は劇遊びの重要なエッセンスが含まれている。そして、日々のごっこ遊びというものは、およそこんなところから生まれてくる。(お、何やら生活発表会のにおいが・・・。)ガラガラドンは、西村清和が遊びの祖型とするイナイイナイバァ的なやりとりが骨格となった物語であり、子どもには理解されやすい、ノリやすい、再現しやすい教材である。

 「ただ楽しい」ということは、子どもにとって非常に大切なことであるが、それだけでは子ども自身の学びにならない。楽しいことを自分で再現しようとすること、そこで生じた問題を解決しようと試行錯誤すること、もっとおもしろくしようと工夫すること、その過程で友だちと紆余曲折を経て協力し、達成感を得ること、それが学びである。だから生活発表会は、そのような学びを導く、一つの大きな装置である。運動会然り、作品展然り。もちろん、楽しさの再現と試行錯誤は日々行われており、それこそが全ての基盤であるが、そこに大きなうねりを起こし、保育者と子どもが共にその一点へと向かっていくことに行事の意味がある。

 例えば、森で楽しんだガラガラドンが、生活発表会へと向かう過程では、全てが意識化されたものへと変貌していく。発表するという目的のために、角のお面を作る。僕は大きいヤギだから、こ~んな大きな角!とか、小さいヤギで、おしゃれなヤギだからといって、じつにファッション性あふれた角ができたりする。橋を渡る場面では、小さいヤギと中くらいのヤギと大きいヤギで、どんな音だそうかな、と考える。そうして、自分たちで、自分たちなりのお話の世界を構成していくのが、劇遊びであり、生活発表会である。自己の営みを意識化し、表現する過程、それが学びであると私は思っている。

 このときに、保育者の力量が試される。進行にアソビがなく、あの自然発生的な根源的な楽しさを忘れてしまうと、子どものエネルギーは失われていき、劇自体のおもしろさはなくなっていく。緊張する子も増える。また、子どもができることの見極めが不十分であったり、教材が発達に見合ってないと、なんかよう、わからんね、というものになっちゃって、子どもにだって集中力は生まれない。その昔、私はここで「断崖絶壁」というコラムを書いたが、今年はどの先生がそうかねと、毎年戦々恐々としている先生たちである。

 日々の営みを意識化し、再構成したものを、自信をもって他者へと開き、つまり、発表し、最高の称賛を保護者からもらうことで、学びの節目が迎えられる。この学びの節目が、幼稚園の実質的なカリキュラムをかたちづくっていくのだといってよい。子どもの達成感は、保育者の達成感につながっている。人は、日常のなかに、手応えのある非日常的装置を必要とする。その一点へと向かうハリのある日常と日常が集約する一点の存在が、人を成長させるのである。子どもと保育者は、立場が大きく違えども、人として連続している。どちらにも、他者へと自己を開く「ハリ」というものが必要であり、それが幼児教育では行事なんである。そのときに、その行事がちゃんと一人一人の「子どものもの」になっているかどうか、これが最も大切なことである。保育者が日常に横たわっているたくさんのドラマ性を感じられる感性をもっているかどうか、それから発達理解は?子ども理解は?援助は?環境の構成は?いやはや、大変でしょ。幼児教育って。ただ遊んでるんじゃありませんよ。

 さらにここで、保護者の存在についても一説盛り上がりたいところだが、やめておこう。

ここまで、読んでくれた人。

ありがとうございました