長い間、お話ができなくて、動くことができなかった子がいた。
でも、動けるようになり、お話をするようになり、
自分で自分を奮い立たせるようになった。
クラスの子どもたちは、それをずっと肌で感じてきた。
子どもの共感性は高い。
その子の一歩一歩は、自分の一歩一歩と同じだった。
だから、いろんなところで、気遣いがあった。
それは、とてもさりげないもので、
およそ、直接的なものではなかったが、
「やさしさ」という言葉がぴったりの何かだった。
その軸に、担任のまなざしと心持ちがあったことは確かである。
その子が、誕生会で司会をすることになった。
それは、とてつもなく、大きなこと。
全員が、その子の前進を祈った。
それは、それぞれの行動と言葉の端々に表れ、
その子を支えた。
例えば、その子の心が沈みそうなタイミングを察知すると、
さっと、腕をとって声をかけたり、
私が「こんなことがあるかもしれないけど、
でも、大丈夫だから・・・うんぬんかんぬん。」の話をしていると、
盛り立てるように、「大丈夫だからそんなの!」
という雰囲気を作って、彼女の心を支えた。
そのタイミングや瞬発力は、本当に、お見事だった。
そういえば、私がお昼を食べに行くと、いつも子どもたちは、
ぎゃーぎゃーとテーブルに誘ってくれるが、
彼女のところに食べに行っている期間は、
何も言わず、ずっと見守っていた。
その子は、勇気と挫折の間を大きく行ったり来たりしながら、
前に進み、
まわりの子たちは、黙って、前に進むことを祈り、
見守っていた。
私は、
「あなたの心には、みんなが入ってるから、大丈夫。」
と言わずにはいられなかった。
だから、そう言った。
そうして、その子は、普通に、
ぎりぎり普通に、大役を果たすことができた。
その子の頑張りも大きいが、
まわりの子どものそのままの共感性が、それを支えたと思う。
子どもの美しさに出会った日。
子どものすてき。