年末より、子どもの心をつかんだ落とし穴作戦。
2歳から年長まで、大好きな遊びとなった。
最近は、砂場でも、お目見えする落とし穴。
2歳の場合は、「こけて。」と来る。
こけて・・・。
んじゃ、こけましょうか。
しかけの新聞紙も丸見えですけどね。
な、具合だが、年中や年長になると、実に手が込んでくる。
先日の森の日は、クラス対抗いたずら大作戦となった。
これは聞いた話だが、
いつもほし組にはめられているふきこ先生に、
つき組がリベンジをすることになった。
それで、朝から演技が始まった。
よく、子どもと言えば、かくれんぼのときに、
「ここにはおらんで。」と、
おる場所で、わざわざ言っちゃたりなんかしてばらすものだが、
この日のつき組の演技は万全であった。
そしらぬ体を貫き、森に潜む。
すごいね~。
もう、ばらしそうな子ばっかりなのに。
いたずらに賭ける子どもの気持ちって、こんなに強いのね。
茂みで待つこと、5分、10分。
ばれないように、帽子も脱いで待つ。
蚊がおらんでよかったね~。
お、ほし組の声が聞こえてきた。
しかし、はやる気持ちをおさえるつき組。
あきこ先生、あきこ先生が来るまで待つ!
ちなみに、あきこ先生は、ある程度の場所を聞いていて、
驚きの演技をする気満々でおったのだが、
どうも、いない・・・、おかしいなぁと、思っていた。
そこへ、側面からつき組が「わぁ~っ、」と現れた!
本気で驚いたあきこ先生であった。
作戦成功!
そこで、奮起するほし組。
気を利かして、ふきこ先生がつき組を連れ去る。
必死で穴を掘り始めるほし組。
そこへ、つき組のHちゃんが偵察に来る。
それに気が付いたTくんが、
「うそうそうそうそ。」という。(何が?)
そして、わざとらしく、お昼ご飯の話とか始めるほし組。
そうして、偵察隊が去った。
あらためて集中するほし組。
かなり深い穴が掘れた!
そこへ、枝をかけることにする。
ぶっとい木を持ってくるTくんたち。
それでは、渡れますね。こけるというより。
そうして、ほっそい枝で、穴をふさぐ。
次に草をかけて隠す。
めっちゃ細い葉っぱを持ってくる。
下に落ちましたね。隠すどころか、埋まりますね。
てなわけで、芝のようなかたまりが見つかる。
実にぴったり。
まわりに馴染んでわからなくなった!
ウキウキとふきこ先生を呼びに行く。
「来た来た~。」と心で笑うふきこ先生。
そうして、穴に落ちに行く。
ところが!
予想以上に、めっちゃ深かった!
なので、本気でこけた!
作戦大成功!!
で、奮起したつき組。
めっちゃ浅い穴を掘った。
そして、スコップを持ったまま、呼びに来る。
「そんな!スコップ持って言う人のこと、
恐くて聞けません!」
とあきこ先生がいうと、
「これは、友だちに借りちょったものだから、
気にしなくて大丈夫。」
と返す。
んははは。
そうして、どうこけていいのか、いまいち悩む、
浅い穴にこけたあきこ先生であった。
子どものすてき。
先生のすてき。
解説
クラス対抗、という視点は、この年中、およそ年長になろうかという発達の時期から見ても非常におもしろい。引っかけられるのが「先生」というところも重要なポイントである。子どもと先生の立場が逆転するおもしろさ、そして、クラス対抗ともなれば、相手方の先生をひっかけるために、一つのプロジェクトを先生と子どもが同じ立場で遂行するという共有感満載のおもしろさがある。
おもしろいことに集中する子どもの学びのエネルギーは、およそ保育者の予想を上回っていく。ばれないために、自分はどうすべきか考えて朝から行動するつき組。そして、しげみに5分以上黙って潜むこと、ターゲットが来るまで我慢すること、全て目的を達成するために考え、自制する学びの姿がある。
また、地面を30センチほど深く掘ったほし組。その粘りと勢いには感服する。もちろん、25人全員がいっぺんに掘れるわけではなく、また掘らなければならないわけではなく、その日のその出来事に関与する子どもの濃淡があることは自然である。それでも、出来事はクラスのこととして、共有される。プロジェクトを完遂するために穴を隠す技も、「こけて。」と言って来る二歳とは、雲泥の差である。
この子どもの学びのエネルギーが、保育者の演技を超えた本気を創ったことは、大変おもしろいことであった。あきこ先生は本気で驚き、ふきこ先生は本気でこけた。しかし、この出来事が生まれるために、保育者の共犯的、陰の打ち合わせが必要不可欠であることも、また確かである。
で、私が言いたいことだが、保育者のこの共犯的、陰の打ち合わせを可能とするものが何かと言う点である。それは、子ども理解を共有できる時間と場である。つまり、保育後の保育者集団の在り方が問われる。このいたずら大作戦は、カリキュラムとして位置づいているものではない。保育の中の子どもの姿を報告し合う中で、自然と生まれ、育って行ったものである。日常は、小さなものが無数に生まれ、あるものは消えていき、あるものは太っていき、子どもにとっても先生にとってもキーとなる何かにつながっていく。それは、緩やかな曲線を描くものだ。それを共有し、日常のさまざまな出来事にある価値を見出し、しっかり抱きとめて次に生かしていくことが、保育者集団には求められる。一人の思い込みですることも危険、一人で抱えて、わからないまま自信を失っていくことも厳禁。保育と言う舞台を支える、保育者集団の在り方は、とても大切にされるべきものである。
だから、シフト制って心底難しいなぁって思うのです。うちは、シフト制は取らず、預かり保育の人数を制限して、保育者のミーティングの時間や教材研究の時間を確保している。(それでも相当つらい。)そして、預かり保育の時間の先生と子ども理解をつなげていくミーティングも行っている。子どもは一人だから、先生によって子どもへの対応が大きく違ってはならない。まぁ、そんなこんなで、質の確保としきりにいうけれど、実際のところ、ほんま大変ですね、現場は。まずは、条件を整えるための資源を下さい。
おわり。