昨年の話。
Sくんが、私の手をにぎって、こう言ってきた。
「Sくんね、Tせんせいの持ってきた縄跳びいらんがよ。」
「あー、そうなの。」
「Sくんね、Tせんせいの持ってきた縄跳びいらんが。」
「うん。」
「Tくんのなが、ほんとうは。」
「あぁ、そう。
Tくんの持ってるのが、Sくんのやった?」
おそらく。
Tせんせいは、Tくんの持っていた縄跳びと同じものを、
Sくんに渡したのだろう。
でも、Sくんは、自分が先に持っていたのだと、
主張したいわけだ。
「じゃぁ、Tくんに言いに行こう。
本当は、Sくんのだよって。」
そこへTくんが来たのだが、
そこには反応しない。
どうやら、Sくんは、縄跳びはどうでもいいらしいのだ。
そしてまた、「Tせんせいがくれた縄跳びはいらんかったがよ。」
と繰り返す。
なるほど。
Tせんせいに、誤解を解きたいんだなと思い当たる。
それが、彼にとっては、とてもとても大切なことなのだ。
「じゃあ、Tせんせいにそれを言いに行こう。」
というと、「うん」とうなづく。
しばらくして、Tせんせいが帰ってきた。
「Sくん、Tせんせい帰ってきた。
言いに行こう。」
と一緒に行く。
言葉につまりながら、なんとか、Tせんせいに、
Tせんせいがくれた縄跳びは、いらなかったと伝える。
私の目配せで、察しのいいTせんせいは、
Sくんの言わんとすることをわかってくれる。
そして、「ごめんね。」と言ってくれた。
ほーっ、とするSくん。
私とまた手をつなぐ。
「ほらねー、言ってよかったでしょ。」
というと、
「うん。」
と言い、そして、
「あー、つかれた。」
と言った。
大好きな先生。
いつも先生が、自分を思ってくれていることを、
重々知っているSくん。
だから、「そうじゃないっ」てことを言うのに、
とてもエネルギーがいった。
子どもにも、愛する人への気遣いがある。
子どもとせんせい。
子どものすてき。
追伸
これには、ポイントが二つある。
まず一つは、事実はどうでもいいということ。
つまり、縄跳びをTくんが先持っていたか、
Sくんが持っていたかは主題ではなく、
自分のどうしようもない思いを、
ちゃんと先生に伝えるという事が主題である。
そして、もう一つは、
自分の思いを伝えられる別の存在があるということ。
これは、保育者集団の質が問われる。
思いが強かったり、抱えたりする子ほど、このことは大切と思う。