園長ブログ

子どもと咲く花

保育の醍醐味は、なんといっても先生のものです。

毎日がとても新しくて、きらきらしています。その点、園長といえばお花の世話をするか、えらそうにするか…。

けれど、決まったことがない分、ゆったりとここにいて、あの子、この子に出会えます。

あいまいな存在であるからこそ出会えるあの子のすてき、この子のすてき。

きらりと光る子どもたちの姿を心に留めておきたくて、こうしてコラムを書いてみることにしました。

子どものすてきが、どうか、みなさんに届きますように。

2016.10.30

息子と学校教育

 

何、その反応

と思った。  

 

夏に家族で大月町の海のワークショップに行ったときのことである。

そこで、自分の思い出に残るものを写真にして、

コメントを書くという活動があった。  

私は、表現したいイメージの写真が撮れなかったので、

旦那の写真をぱくった。

これに、めちゃめちゃ反応する息子たち。

な、なんてことを!

最悪、ずるい、ありえないと大ブーイングを起こす。

 

  じゃかましい。  

 

そして、私は大月町でもらった地球の壮大なイメージを、

一つの詩にしてその写真の横に書いた。  

これにも、息子たちは、「何書いてんだ。」と反応する。

「この母親、大丈夫」というわけである。

私的には、別にどうでもよくて、

ただ、心にうけた強烈な何かを言葉に映してみただけで、

「それでえいやん」というわけだから、 笑って流す。  

 

さて、発表の時間になり、

ルール違反をする母親を心配する息子たちのために、皆の前で、

「この写真は、パクリです」と白状する。

ほっとする息子たち。

それから詩を読むと、こういう場ですから、

みなさん認めてくださる。

それに、息子たちは、心底ほっとしていたのであった。

 

  「この母親、大丈夫未然に防げた」みたいな感じ。  

 

笑えたのは、 写真と詩をA4の紙に貼り、額にはめるとき、

そこに一緒にあった広告の紙を一緒に挟み込むかどうかで、

息子たちが騒いだことだった。

私がそれを外していると、

「それは、一緒に入れなきゃだめなんだ」

と、ぎゃーぎゃー言うのである。

まわりは、どうもはめているらしい。

「どうでもえいやん、」ってことに、

これほどまでに騒ぐ息子たちが、

私は実に新鮮であった。  

「べつに、いいんだよ。」 と私が言うと、「よくない!」と反論し、

そのとき、ちょうどボス(ここのリーダー)に、

誰かが、この紙のことについて質問した。

「まぁ、入れんでも、いいでしょう。」

と言ったのを聞いて、猛攻性をかけてくる。

 

「ほら、ボスは入れた方がいいって、言ってんじゃん!

 入れんでもいい、って言ったんだ!

 入れなきゃだめなんだよ!

 だって、ボスが言ったんだから!」

 

  やかましい。

 

  「ボスが言ったことだから、それが正しい、」 とは、

まさしく「先生が言うことだから、それが正しい」 である。

(ボスは魅力的だったので、さらにそうであろう。)

 

  学校教育ってこんなんやな、

と改めて思った。

 

<以下うんちく>

私にとって、大月町でのこの活動は、

思い出づくりなのであるから、どうでもいいんである、

ということがわかっているから、

私は好きにする。

心の響きに従う。

もちろん、大人同士そんなことは了解済みである。

(多少、自己中かもしれんが、枠組みにはしたがっているではないか)

しかし、息子たちは違った。

非常に手続きや、決まりやまわりが気になっていた。

 

なんのための活動かということが、

子どもたちにとっては極めて希薄なのが、学校教育ではなかろうか。

なんで算数?なんで国語?わかるわけない。

「将来?はぁ、なんですかそれ」ぐらいのおぼろげなものと、

算数と国語がどうつながっているのかもわからんのが子どもである。

あるからやるし、そうだからそうするだけである。

 

そんななかでは、 リーダーのいうことが、絶対になり、

それに沿う流れのなかにある「まわりと同じ」、

ということが「正しい」の指標になる。

それが、一斉活動であり、学校教育なんだなと、

息子たちの騒ぎぶりを通して、深く感じ入った。

日頃好き放題している息子たちの感覚がこれというのが、

とても意外で新鮮だった。

だから、どうこうというわけではない。

これは、学校教育というシステムがつくる社会の在り様である。

 

これから、それが変わろうとしている。

楽しみだね。