イメージを共有し、一つの絵を作り上げるというのは、
5歳児に求められる協同的学びにふさわしい活動である。
しかし、これはなかなかに、難しいのである、実際は。
私の発見では、仕切り屋の女の子が、ボンドを担当し、
このぶにゅぶにゅと出てくる感じが楽しくて、
先走ってボンドを垂らしまくり、
本人は地道に実を置くことをしない、
という姿であった。
これが複数人いるのである。
派手なことはしたがるが、先走って、共に動こうとしない、
周りを考えない、地道なことはやらない、
そして、イメージは他人任せ。
これは、問題であろう。
というわけで、私に怒られて泣いた子もいた。ははは。
それはよかろう。
「ひまわり」を作ったグループのことである。
実にダイナミックで、生きる力を感じる作品であった。
個人作品では、ひまわりを描く予定だったが、
時期がことごとくずれまくって、
ゴッホ的「ひまわり」を描くことを断念した我々にとって、
(だから、紆余曲折しまくって、
同じ花の構造をもつコスモスを描いたのだが)
この「ひまわり」は、実に芸術的魅力に満ちた「ひまわり」であった。
花びらにセンダンの実を使いまくり、
どれが花びらかいまいちわからんなっても、
それは、実にすばらしさを放っていた。
ちなみに、このグループは、あんまり考えない人と、
考える人で構成されたグループであった。
考える人は、全体的イメージを持ち、
現状を把握し、次にどうすればよいか考える。
一方、考えない人は、今起こっていることそのものに没入し、
感性全開で集中する。
たぶんね。
考える人が3日もお休みしたので、この「ひまわり」は、
考えない人の展開で進んだ。
考えない人たちは、おそらく、他のグループの「雲」の表現に、
触発されたのであろう。
空いたところに、雲を作った。
だがしかし、それは、ひまわり的には、下にあった。
雲の上にひまわり?
それもあなた、下絵では、それ葉っぱだったでしょう。
考える人と考えない人が話し合う。
それにしても、この雲の形、葉っぱでもいけますよね。
というわけで、
雲に細い枝の葉脈が施され、それは、葉っぱになった。
いくら葉っぱが白かろうが、それは実に芸術的であった。
よし。
よしなのよ。
子どもの協同のリアル。
子どものすてき。