すくすくの森で、亡くなったタヌキが、
骨の標本となって、戻ってきた。
りす組の子どもたちも、森の金城さんのお話を聞いて、
大いに感銘をうける。
そして、Iくんは、タヌキになって歩き、
そのあとバタッと倒れて、
「I、骨なった。」
といった。
聞いた話だが、かわいいのう。
そして、その日から、ごっこ遊びにて動物の大ブームが到来。
それに合わせて、担任は、しっぽを大盤振る舞いである。
過去の生活発表会で使っていたしっぽを使って、
きりんや、きつねや、たぬきや、いろんな動物が現れた。
すると、
ある朝、Hちゃんが、N先生の耳元で、こうささやいた。
「はっぴょうかい、しっぽなが?」
子どものすてき。
<考察>
というわけで、りす組は、しっぽの何かになりそうである。
生活発表会というのは、保育者にとっても、子どもにとっても一年の集大成的な何かがある。表現自体が実に総合的である。歌あり、ダンスあり、なりきるあり、作るあり。
なかには、年長になったとたんに、「生活発表会、何するが?」と聞いて来たり、今のこの時期、「はよう、○○作らんと。」「はよう、練習せんと。」と子どもの方から、焦る言葉が出てきたりする。もちろん、常に「大丈夫か!私!」と思いながらする保育者だって、同じ気持ちである。つまり、子どもは子どもで、成功を願う故の心配と期待を抱え、保育者も保育者で、成功を願う故の心配と期待を抱えている。当事者と援助者は、実に運命共同体である。つまりこれは、子どもと保育者がカリキュラムをぴったりと共有しているということである。まさしく、今流行のアクティブラーニングである。
子どもたちは、自分たちの遊びのエッセンスが、劇という「かたち」になっていくことを知っている。だから、この時期は、なんか遊びも日常のものとは違ってきて、もっと、目的に向かう気運とハリが出てくる。年長になると、なんか、仕事レベルである。
Hちゃんのこの言葉は、いろんなつながりの中で出てきている。彼女は、進級児で、2歳のときに、生活発表会を経験している。だから、日ごろの遊びが、劇につながっていくことを知っている。また、お兄ちゃんがいて、とても恥ずかしがり屋の彼が、それを乗り越えて、どんどんと活躍の幅を広げていったことを肌で感じている。また、保護者の方も、生活発表会がどんなふうに作られていくかを知っている。だから、もしかしたら、Hちゃんがお家で、みんなでしっぽを付けて遊んでいるとお母さんにお話したら、お母さんが、「しっぽやね。(生活発表会)」と言ったかもしれない。
Hちゃんの「はっぴょうかい、しっぽなが?」という言葉は、そんないろんなつながりが生んだ、実に奥の深い言葉なのである。