ある日、若草幼稚園最大の穴が、砂場にできた。
かくれんぼで隠れようと手で穴をほったところから始まった穴掘り。
手は大丈夫?と心配するほど、大きな穴で、
さらにそこからスコップを使って、彼は穴を掘り続けた。
側面を水で流しながら、ひたすら穴を掘る。
なんて、かしこい子だろう。
すっぽり自分が入るくらいの穴ができ、
それでも彼は、掘り続ける。
一時間ほど掘り続けて、彼は、「疲れた、疲れた。」といいながら、
まだ、掘り続けた。
どうやめていいか、わからないようだった。
傍らにいた私も、わからなくなった。
しかし、彼は辛そうだ。
「時計の針が、12になったら終わりにしよう。」
と提案する。
すると、彼は、ほっとしたように、
「12になったらね。」
といった。
やはり、「おしまい」のつけ方がわからないのだった。
それから彼は、また集中し始めた。
12なんぞ、おかまいなしである。
私のいうことは、聞き入れないだろうという姿に、
絵本を一緒に読む約束していた担任を呼んだ。
彼は、舌打ちをしながら、担任の言葉を受け入れ、
クラスに戻った。
続きをするから置いておいてくれと言う彼の頼みに、
たぶん、難しいだろうという返事を担任は返した。
降園後や預かり保育でも遊ぶからだ。
次の日、彼は穴のふさがれた砂場を見て、
「やっぱり。」と予測済みであった反応を見せ、
それから、また穴を掘った。
このときは、前日の大きさが試金石になっていたようだった。
午後に、これまた28個のどろだんごを作って並べていたが、
この日以来、このような集中を見せることはなくなった。
そして、砂場は、彼の掘った穴を再現する動きが、
他の子どもたちから出てきて、(何しろ、掘りやすい。)
そこで落とし穴作戦が流行った。
そういえば、彼がとてつもなく高いところまで木登りしたとき、
担任は息を呑んだが、後に続く子が多く現れた。
類まれな動きのなかで、道を拓く子。
子どものすてき。
<考察>
「おしまい」はどこからやってくるのだろうか。
子どもの遊びを見ていると、「おしまい」は無数にある。だが彼は、「おしまい」を見つけられなかった。「疲れた」を連発しながら、身体は動き続けた。「おしまい」の感覚は心と身体のバランスにある。「なんかおわり」なのである。子どもの製作している様子を見ると、よくわかる。「ここらへん」感覚である。ロボットを作っていたって、やろうと思えば、いくらでもモリモリできるが、なんとなく本人のなかで「おしまい」がわかるものである。おそらく、これは乳児から培われているものだろう。心と身体が共に落ちどころにきたら、「おしまい」である。だから、乳児から自分の時間を過ごすことがとても、とても大切だと思う。
彼は、この日以来、一人で長時間「ただ何かをする」ということは、なくなった。代わりに、格段に友だちとのかかわりが増えた。この背景には、長い時間をかけて、我々が彼をどんなふうに包んできたかが、大きく関わっている。
友だちとのやりとりは、心と身体が共鳴することで成り立つ。共に盛り上がり、共にしぼむ。片方がしぼめば、自分もしぼめざるを得ない。それが、他者との関係である。そうして、彼は、心と身体のバランスを他者とのかかわりのなかで、学ぶ気がする。
「おしまい」は、自分では決められない。心と身体が働く状況のなかで、さしあたりの「おしまい」が無数にやってきて、また、始まるものなのだろう。