新人の3人とすくすくの森の研修に行ってきた。
予定は、森の王道を通る中で、
・子どもの安全上、配慮しなければならないことを、
地図に書き込んでいく
・その場所で感じたことを書く
・子どもの活動としてイメージできることを書く
であった。
そして、われわれは出発した。
思い思いに、ゆっくりと道を進む。
30歩ほど歩いた、池の前で、
アリの行列を見つけたA先生。
その行列は、岩の下の方にくっついていた、
それほどおいしくなさそうな赤い木の実で折り返していた。
裏にはカビまでついている。
なるほど、ここが終着点か。
しょぼい終着点ではないか。
なぜ、きみたちは、こんな実のために、
えらく長い旅をしているかね。
それでいいのか。
我々は、やまももの汁を絞ってみて、
それに群がるアリたちに感動し、
じゃ、ビワだったらどうなるわけ?
と、少し離れたところに垂らしてみた。
きっと、行列が変わるであろうと期待していたら、
長いこと味わって、情報を渡さないアリたちだった。
その後、終着点の赤い実を、失くしてしまったらどうなるか実験し、
行き先を失ってウロウロとばらけるアリたちに「お~。」と感動し、
それから果てしなく長く続く行列を追ってみたくなり、
あれこれあれこれと、仮説を展開し、
なんと、出発して30歩で40分もすごしてしまった。
そこで、
この我々の発見と感動を、
年少、年中、年長の発達段階に応じて、
どのように投げかけるか、そのための環境の構成として、
何が必要か、話し合った。
我々は、大人で合計4人。
しかし、子どもは子どもで、20人以上いる。
年少の気まぐれと大ざっぱな物の見方の前で、
何を投げかけられるか。
自分なりの見方で世界を広げ、深めている年中児には、
どんな行動が生まれ、それを支えるためには、どのような援助が必要か。
さまざまな試行錯誤ができ、それを友だちと共有できる年長児には、
どんな実験ができるだろう。
というわけで、最初の予定はどこに行ったのか、
という展開になってしまった。
しかし、我々の知的好奇心は、本物であった。
森は出会いの場所である。
計画は、多様で複雑な世界に、ある視点を置くことによって、
活動に、確実性と明晰さを生む。
それによって導かれる「わかる」は、
子どもたちにとって心地よいものである。
これは、とても大切なことだ。
しかし、計画を持つことによって、
「その場」、「その時」に起こっている、
出来事の豊かさに目を向けられない可能性も持っている。
ところが、子どもは「その場」「その時」に起こっている、
かけがえのない出来事に、とても心を動かされる。
そこに、柔らかに添えることも、
保育者にとっては、とても大切なことである。
計画通りすることも、「その場」「その時」を大切にすることも、
どちらも、教育的価値を持っている。
それを、どんなふうにアレンジできるかが、保育の専門性である。
計画を進めていくことと、
子どもの心の動きを共に感じて、世界に身を投げてみること、
保育の豊かさの鍵は、ここにある。
というわけで、我々は、頭を使いすぎたので、
それから頂上に行って風に吹かれて、いい風景を見渡し、
園に帰って、BBCのDVDを見て、
アリたちの容赦ない攻撃のすごさと、
身内意識の高さと、役割分担と、
「生きる」の生生しさに、驚嘆したのだった。
予定は次回にまわそう。
研修のすてき。