今の若い人の最大の不幸は、
失礼であることが失礼とわかっていないことである。
これは、学生を見ての感想である。
例えば、
「あ~、今日うんこ出てなくてつらい。」
と、でかい声で言う様を聞かされることもある。
失笑の裏で私は、
「てめえのうんこのことなんて、聞きたくねえよ。」と思っている。
もっと、ひどいものも、中にはある。
内職をやっている学生に、私的には最大の親切で声をかけると、
逆ギレする。その子は、とても温和しそうな子で、
おそらく、本当に時間がなかったのだろう。
「はぁ?」というしかなかった。
また、ある課題について「先生見て~。」と言ってきて、
アドバイスすると、「やりなおさないかんやん!」と怒ってくる。
あまりの出来事に絶句するが、その後に浮かぶ言葉は、
「ふざけんなよ。」である。
この時期、遠隔授業になっているが、メールでのやりとりで、
何の前置きも、何の挨拶もなしに、質問の答えだけ送りつけてくる者もいる。
天然なのか、意図的なのか、会うのが楽しみである。
あらかたの子が、社会に出て初めてこれらのヤバさを痛感し、
急ピッチで自己を改善していくのだろうが、
その間の現場の苦労もまた、大変なものがある。
だが私は、これらの学生の心にどことなく絶望を感じる。
彼らにとって「勉強」は、苦痛以外の何ものでもなく、
単純に自由を奪うものであり、その象徴が、前に立つ教師なのである。
だから、彼らは、学びの中身に向かう前に、教師の品定めから入る。
この人物は、自分の絶望を深める人間なのか、
それとも、まだマシなのか、自分を傷つけることはないのか、
そういったセキュリティ感覚で、授業に臨んでいる。
失礼の裏側には、実は、傷ついてきた彼らの履歴がある。
教師は、校則という正しさで袈裟切りしてきた子どもの心の裏側を、
どれだけ理解してきただろうか。
私は、学生の精気のない表情の裏側に、
人の価値観で生きてきて、自分の価値観を練ってこなかった、
傷つきやすい心を見る。
それでまた今は、逃げる場所がゲームである。
子どものあらゆるエネルギーを吸収してくれる自然や人、
社会的営みのなかに、今の子どもはいることができない。
それはつまり、自己を確立するチャンスが、
著しく少ないということである。
学校の窮屈さを解消できないなら、
学校が変わるしかないのか。
あるいは、教師が子どもの心の自由を広げるしかないのだろうか。
もう、考えるだけで窮屈であるが、
そうすると、軍隊的幼稚園とか保育園は、もう論外であるが、
私的には、やはり子どもの心の絶望への分岐点は、
小学校じゃないかな、と思っている。
ただいま、しずかに検証中。
若い人のこれからのすてき。