ところが。
今年、ある小学校の卒業式では、その夢が語られなかった。
統計を取ろうとしていた私にとっては、とても残念なことであったが、
子どもの心に寄り添おうとした結果であろうと感じた。
なぜ、夢を人前で語らなければならないんですか。
夢とか、ありませんけど。
というところが、今の小学6年生ではないだろうか。
全て想像であるが、
一つ目は、プライバシーの問題、
二つ目は、イメージのなさが要因であろう。
今の子どもたちは、知覚過敏なところがある。
体験不足で触覚が鍛えられておらず、いろんな物に果敢に触ることができないので、
いろんなことに臆病である。
自分をあからさまにするような危険は冒したくない。
それに、プライバシーを明らかにせよと指示する、
あるいは期待する大人全般を、信用していないということもあるだろう。
また、夜遅くまで電気を浴びるので、思春期が早まっているという説もある。
要するに、
そんなこと人前で言わせんなや。
私の勝手やん。大きなお世話やし。
というわけである。それはもっともよね。
それともう一つ、ずーっとほぼ教室か部屋の中で過ごしているわけだから、
大人の営みを見ていない。
また、生活経験がないので、あらゆる物事にはそれに至る過程があることを知らない。
いつも製品(あるいは商品)という結果だけを見ているので、
それがなぜ、どうしてあるのかということについて、
考えるような視点を持っていない。
それで、どうやって夢を描くわけ、
というわけである。
そういうわけで、権利主張と無気力さでもって、
無言の抵抗をした思春期入り口の皆さんだったのではあるまいか。
(全部、想像ですけど。)
そんな子どもたちを受け入れたのは、
ある意味必然だったのではないかと思われる。
ちなみに、名前を呼ばれた時の返事は、非常にか細く、
マイクが用意されていたほどである。
自分の名前を呼ばれてきりっと返事ができない。
その繊細さと過敏さに、大人として何ができるのかと思う。
一方で、こんな繊細な6年生をふがいないと思ったのか、
卒業生を送る5年生は、とてつもなく声がでかかった。
うーむ。
こうやって、人はバランスをとるのか?
出番になって起立したときも、あんまりにもザンッと勢いよく立ったので、
我々来賓は、みんな地震と間違えたほどである。
そして、最後。
5年生と6年生が小山薫堂の「ふるさと」をうたった。
上のパートが6年生である。歌が長かったのがよかったのだろう。
最初は小さかった6年生の声が、次第に美しく力強く響き始めた。
それは、どんどんと確かなものになり、どんどんとまとまり、
未来への期待と5年生へのエールを象徴しているかのようであった。
そうして気持ちを合わせていく子どもたちの声は、
とても美しかった。
卒業生の皆さん、おめでとう。
中学生代表の祝辞は、本当に心のこもったものでしたね。
みなさんの前途が明るく希望に満ちたものでありますよう、
子どもの初めての社会の場である幼稚園より、
心から、お祈り申し上げます。