お片付けの時間というのは、何か起こる時間である。
特にこの季節、すなわち、新しい環境に身を置く季節は、
まっこと、何かが起こる。
物事は、気ままにそのままに進んでいることが心地よい。
それが、遊びの時間である。
しかし、その快適な自動性にストップがかけられ、
快適な遊びの時間からお片付けの時間へと、
外側から「やるべきこと」が課される。
これは、子どもにとって、一つ大きな出来事である。
さらに、お片付けは次の課題へと永遠につながっている。
お着替えをして、手洗いうがいをして、お弁当の準備をして、
そして、食べるのである。
「食べる」もまた、子どもにとっては一苦労だ。
つまり、快適な遊びから生活への移行の時間は、
子どもにとって、まぁまぁ、気力がいるのである。
これについて、無言の抵抗をする子もいるし、
隠れて遊んでいる子もいる。
だが、大概の子どもは、「それはそうですよね」と受け入れて行動する。
そんな中、S氏は、このザワザワとした雰囲気に対して、
ザワザワと表現する。
おそらく、「わからん!」ということであろう。
部屋に入るなり、さっそく積み木を盛大にぶちまける。
「おれは、そんな気分じゃないぜ~。」
なのか、
「みんな、何をわちゃわちゃやっているのさ~。
何が何やら、分からんじゃないか~。」
か何かわからんが、
どの保育者も、この場面に会えば、「おのれ」と思うであろう。
これから秩序空間へ向かおうとするこの時に、
よくも混沌を生んでくれたな、というわけである。
そんなわけで、「それするやったら、外へ行くで。」と、
有無を言わさず、外に連れ出す。
そして、積み木は速やかに片付けてもらう。
さっそく遊びだすS氏。
私は、パンジーの枯れた花を摘み始める。
こういうときに大事なのは、子どもと一緒には遊ばんことである。
好きにさせるが、心は共にしない。
これを、縁側保育と名付けよう。
そうすると、たいてい寄ってくる。
そして「何しゆうが?」と聞いてくる。
そして、「ぼくもやりたい。」と言ってくる。
そういうわけで、一緒にパンジーを摘み始める。
「うんうん、上手上手。」とほめながら、共同作業する。
私が、枯れた花を目立つように示していき、
彼はそれをツプンと取る。
なかなかおもしろい。
そして彼は、近くにいた先生に、「これ取りゆうよ~。」と話しかける。
その姿を見て、「認めてほしいんだな」と思う。
20回くらいしただろうか。ちょっと疲れが見え始める。
「これ、N先生とH先生に持って行こうか。」と投げかける。
最初は、やだ、なんて言っていたが、やっぱり持って行きたい。
そういうわけで、彼の手の平にいっぱいのパンジーを乗せる。
たくさんあるので、小さな手の平に入れるのはなかなか難しい。
だが、これは「成果」であるから、何としてもいれなければならない。
ここでも、私と彼の共同作業が起こる。
こんな、目的を一緒にした小さな共同作業がとても大切である。
そして、クラスに戻った、
すると、N先生が「おかえり~。」とSくんを迎える。
この「おかえり」が何よりも大事である。
Sくんは、ほい、と手を上にあげて、自分の成果を見せる。
「わぁお、すごいね~。」とN先生は反応し、
「それ、入れ物用意するから、それに入れてH先生に見せようよ。」と受けて、
二人で保育室に入っていった。
あなたは、このクラスの一員よ、という「おかえり」と、
どんなときでも、その子の成果とその気持ちは受け取るということ、
これを大事にしている若草幼稚園の連係プレーであった。
せんせいのすてき。