さて、環境の構成として、どろだんご工場の維持について書いたが、
いくらそれを整えたとて、苦手な子には通じない。
こんなとき、何がもっとも子どもの心を動かすかと言えば、
遊ぶ先生である。
何年か前に、固定遊具を買いなおすことになった。
このとき、統計調査で、最も子どもの体を動かすのは、
ダントツ一位で先生と遊ぶことだと書いてあった。
私は、これに至極納得した。
そして、第二位は、滑り山だった。
それで、設計図最終確認の時期に、全面的な変更をお願いし、
設計士は、打ち合わせに来てくれなかったことがある。
今更、覆すなや、ということだろう。
それは、重々申し訳なく思ったが、巨額の投資をする身としては、
絶対に譲れなかった。
まぁ、あの論文を読まなければ、そのまま行ってましたけどね。
結果的に、とてもシンプルになった大型遊具。
工事の人と相談して、相当きつい傾斜にしてもらったおかげで、
とても楽しい。
だが、話を戻すが、ダントツ一位は先生と遊ぶことである。
そして、これは、本園の自慢である。
4歳児後半から5歳児にかけては、もちろん子どもたちだけで、
ルールを共有して遊ぶことが大事であり、
我々は、それを目指している。
だが、その過程において、環境としての保育者の遊ぶ姿は、
とてもとても大切である。
保育者は、子どもたちにとって光り輝く小さな太陽である。
この技を身に着けている保育者は、実際非常に少ない、
というところが、今の子どもたちにとって悲しい実情である。
園庭にいる保育者が、腕組みしたり、
後ろに手をまわして子どもを見ているか、
先生同士でお話をしているか、砂場で動かないか、
こんな姿を、いつでもどこでも見ることができるかもしれない。
子どもの安全を確保する=見るという図式は、非常に多い。
子どもとやりとりする世界に下りていくには、勇気がいる。
我々の心には、いつもあらゆる子どもをキャッチしようとするアンテナが働いている。
それを持ちながら、子どもに下りていくことはプロの技である。
また、ある時は、すべてを取っ払って、子どもと共に唯一無二の世界へと没入していく。
これは、内側から子どもと心を共にする感覚がないと、できないことである。
若草幼稚園の先生たちは、その技を持っている。
そう、これは、センスも大きいが、それを超えた技でもある。
そして、技の中心には、子どもたちへのねがいがある。
時に私は、子どもとそのまんまに心を合わせ、
笑顔の花を咲かせている先生たちの姿に見とれている。
ありがたいことである。
先生たちが書いたお便りドキュメンテーションには、
まるで自分が経験しているかのような臨場感と感動で、
泥とかかわる子どもたちの姿が描かれていた。
汚れることが、どんどん難しくなっている昨今、
どこまで続けられるかわからんが、
この美しい情景に出会えている私は、幸せである。
先生たちのすてき。