先日、ワタクシは、44歳になった。
年配の方から言わせると若輩者であり、
若い人から言わせるとオバチャンである。
この日、初めて、誕生日が嬉しくなかった。
共に生きる時間が減っていくなぁ、どんどん!と思った。
何せ、シとシですものね。ぎゃー。
夏にモンゴルのガイドに年を訊かれ、43と答えると、
「君はすごく若く見えるよ、38ぐらいだと思った。」
と言われたが嬉しくなかった。
変わらんやん。
さてしかし、きっと私は、人生の分岐点にいる。
40歳ぐらいのときは、1年、2年をどうとも思わなかったが、
今は違う。たった4年でこうも変わるもんか。
友だちは、だからやりたいことをやる!と言っていた。
そして、50代の素敵な人は、完全に開き直ると言っていた。
そして、70代の人は、率先して自分の年を言っているらしい。
うーむ。
先日、ある大学の附属幼稚園と保育園を見学させてもらった。
そこには、乳幼児のために考え抜かれた環境があって、温かだった。
なにしろ、建築家の図面を全部保育者目線で書き直したそうである。
その気概と集中力に感服する。
その帰り道に、ここが3年前の学会会場だったことを思い出した。
風に吹かれながら休んだベンチがあって、
あんまり気持ちがいいもんで、
このままずっとこの時間が続くか、どこか遠くに行けたらいいな、
と思ったことも思い出した。
夢を現実にするということは、
なかなか難しい、ということがわかるのが大人だろうか。
生きていくなかには、失意のパターンというものがある。
それが繰り返されるのは、根本的なものが解決されていないからである。
それは、先に解決されるべきなのだろうか、
それとも、歩みながら解決されていくものなのだろうか。
失意のパターンから創り出されるマイナスのイメージは、
グルグル巻きに心臓を覆っている。
これを外すのは、本当に大変。
それでも、学習能力というものがあって、
失意のパターンは予想通りのパターンとなり、
いやぁ、また起きましたね、という心持ちになり、
冷静さが生まれる。
さて、私はこれからどうするのだろう。
何ができるのだろう。
こんな心持ちを、今必死で前に進もうと頑張っているMちゃんと重ねてみる。
大人も、子ども一緒だね。
生きるすてき。