明日は、生活発表会。
保護者の方に、子どもたちの一年の学びの成果を見てもらう日。
私は、非常にわくわくしている。
今年は、調整に調整を重ね、子どもたち同士で見合う総練習は、
2日ずれた。
先生たちは、結構半泣きだった。
先生たちの半泣きに相関して、子どもたちは生き生きとしていた。
とても楽しそうだし、やりきって見せる!という気概も感じる。
そういうわけで、どのクラスも大変すばらしい。
その総練習のときのことである。
あるクラスで、ちょっとコミカルな雰囲気が出て、
子どもたちに笑いが起こった。
彼は、それがとても嬉しかった。
なので次の演技では、そこを意図して演じた。
それで、よけいに笑いが起こった。
彼は、それがとても嬉しくて、次は、もっとはっきりとそれをした。
それで、笑いがもっと盛り上がった。
すっかり有頂天になった彼は、
他の子どもの見せ場でも、舞台の前に出てきて、
今度はふざけ始めた。変顔を作り、おどけて見せる。
だが、その時は、誰も笑わなかった。
相当しつこく続けたが、だれも反応しない。
あんまり続けるので、付き合いで笑った子が一人だけいたが、
とても静かな大衆を前に、彼は、「ちがうんだな」と思って、
もとに戻った。
私は、なんてすばらしい情景だろうかと思った。
彼がふざけたことについては、致し方ないと思う気持ちもある。
自分のしたことを純粋に笑ってくれる人たちに出会った快感は、
相当なものだったろう。
緊張を裏目に出すタイプで、
練習はほぼ出ていなかったが、役割は全部覚えていて、
この日は意を決してきちんとやっていただけに、
こんなふうに、大衆に受け入れられたことは、
とても嬉しかったに違いない。
場をわきまえず、その快感を続けて得ようとする行動に、
若干無理もないと思った。
そして、お笑い芸人ってこうして生まれるのかなとも思った。
この場面で、子どもたちの笑いがずっと引きずられていたら、
私たちは、すぐにでも止めただろう。
だが、大衆である130人あまりの子どもたちは、笑わなかった。
誰も。
今、他の人の出番だけど、いいの?
という、困惑に近い沈黙だった。
それぞれのシーンを台無しにしてはいけない、というコモンセンス。
それは、一人一人の役割が大事だと子どもたちが思えている証である。
そして、その気持ちは保育者のまなざしが作っている。
保育者が一人一人を大事に思い、一人一人が光ってほしいと願い、
そのように毎日を過ごし、そのようにこの劇を作ってきたから、
子どもたちは、一人一人の役割を大切だと思っている。
その姿勢が、この沈黙の正体である。
常識は、思いやりから生まれている。
それを、まざまざと感じた出来事だった。
若草幼稚園の子どもたちと、
せんせいのすてき。