以前、遊び論について学んでいるなかで、
そのときは、何とも理解できなかったのに、
ずっと頭に残っている論文があった。
それは、著者が幼いころ三輪車に乗って、
果てしのない旅に出た気になった情景が書かれており、
そこからその論は、旅の話になった。
初めて読んだ時、その幼いころの情景の件が強烈に印象に残ったことと、
なんでこれが遊びの論文?と思ったことだった。
それでも、ずっと頭から離れなかった。
今ようやく、あの論文が理解できそうである。
遊びとは、境界線を自分自身がつくるものだということではあるまいか。
その観点からいえば、幼稚園というところは、非常に分が悪い。
なぜなら、囲っちゃってるから。
私はいつも、それが出発点だと思っている。
幼児教育は囲うことから始まる。
もっとも、それに敏感なのは新入児である。
連れて来られて出られない場所が、
来ることが楽しみになって、
ここで過ごすことが当たり前になるよう、
願い、そのためにどうすればよいか、いつも先生たちと考えている。
だが、ここはやっぱり幼稚園である。
本質的な意味合いにおいて、「遊び」という概念はそぐわない場所なのかもしれない。
それでも、「遊び」という言葉を使いますがね。
ある意味でのメッセージを込めて。
まぁ、ここから出たら、子ども、車にはねられますし、
速攻、迷子になって、泣くことにもなりますしね。
話は変わるが、私が今年参観したある幼稚園は、
大学の附属幼稚園で、とても有名な建築士監修の幼稚園だったが、
年少さんは、園庭に出るときに、自動ドアを通らなければならず、
そのドアのボタンは、幼児の手にはぜったい届かないところにあった。
私の価値観では、それは有り得ない。
しかし、ある一般人にしてみれば、それはごく当たり前のこととして、
受け止められるらしい。
こんな感覚と戦わんといかんのか、と正直うんざりした。
内と外の境界線が緩やかであるといいね。
実際の環境として、町ではちょっと難しいけれど、
せめて、人の心の境界線が、バチンバチンとしてないのがいいね。
境界線。
いろいろあるね。ないのにあるとか。
どうやったら、飛び越えられたり、
新たな方法が見えたりするのかなぁぁ。
幼児教育、難しさのすてき。