UPの日を、すっかり一日間違えていたでござそうろう。
今日は、生活発表会。
子どもたちのすてきぶりに、泣けた。
さて、
ごっこ遊びとは、「つもり」の遊びである。
お母さんのつもり、とか、プリキュアのつもり。
ヒーローのつもり、とか、海賊のつもり。
赤ちゃんを寝かせているつもりだし、
敵と戦っているつもりである。
ときに、本気になって泣く。
現実社会の印象に残っている部分を、
思いつきで、適当につなげて、再現し、再構成する。
それが、ごっこ遊びである。
中身はけっこう奇想天外で、実におもしろい。
現実を色濃く反映したものであるから、
今の子どもが黒電話をかけるわけがない。
もちろん、スマホである。
私の場合、年のせいで指が乾燥しすぎて言うことをきいてくれんが、
子どもの手だと実にスムーズであろう。
だが、「つもり」なので、廃材でできており、動くわけはないが、
子どもは実に幸せそうである。
時計だって、動くわけはないが、つけているだけで、ハリがでる。
ごっこは、自由である。
年少さんのごっこ遊びは、まるで花に集まるミツバチのようである。
おもしろいことがあったら、即座にそこに集まってくる。
保育者は、基本、遊びの持続を課題に持つので不可思議な現象だが、
ある意味、それは生態だと思うべきところがあろう。
2歳なんて、瞬間的なやりとりの連続である。
構造持たない。
しかし、寝ても覚めても家でも幼稚園でも、カマキリになっていた子がいたね。
目が合うとポーズ取ってくれたりして。
そういうの、いいなぁ。
豆まきの後は、毎日毎日毎日毎日、
園庭で鬼が新聞棍棒を振り回していたし、
今日劇に出てた、恐竜だって、普段の日に一日中その格好だったもんね。
興味関心をもつというエネルギー、
そのエネルギーでもって、
具体的に、それも即座に身体を動かすこと、
それでもって、なんとなくから、めっちゃ一緒に、までの幅で、
友だちと響き合うこと、
これが大切である。
さて、ごっこは自由だが、拡散しすぎるとつまらなくなる。
つづく。