子どもの生活を凌駕するゲーム世界。
大人は危惧しつつも、子どもの「夢中」にまつわる利便性と、
子ども文化へのスムーズな参加を配慮して、
それを与えている。
与えるか与えないかは、大人の選択だが、
その選択は、どこか個人の問題に帰することはできない面がある。
利便性とは、子どもが静かにするので時間ができる、であり、
子ども文化への参加の配慮とは、友だちの輪に入れないのは困るだろう、
という親心である。
そして、現実は子どもの夢中が手に負えなくなる、であろう。
そもそも子どもは、なぜ、ゲームに夢中になるのだろうか。
自分の指先の操作だけで、ある(電子刺激による強い刺激を伴う)結果が生まれ、
それは、往々にして破壊や撃墜や殺人による優越感を伴い、
次々と設定される関門を「クリア」するという形で、
世界が変わるからではないだろうか。
楽に「やった」という刺激が脳みそに秒単位で与えられ、
その自分の操作の集積によって世界が変わる、
ということが、子どもの夢中を引き出しているように思える。
仮想世界で、世界をアゴーンの楽しさによって変える喜び、
これがゲームである。
私は息子たちに、総じていえば、ゲームを与えなかった。
他人の脳みその中で遊んで、何が楽しい。
ゲームは、他人以上にはなれん。
というのが、持論だった。
だが、上の子どもは、子ども文化への参加をもくろみ、
親をだまし、あの手この手で、それを手に入れようとした。
そして、とうとう根負けして、中学1年の誕生日に買ってやった。
子ども文化の主流に参加できないのは、それなりに苦しかったろう。
よく、「うちの親は明治なんだよ!信じられねぇ!」と息巻いていた。
当然かもしんないが、約束のゲーム時間を守らなかったので、
すぐに取り上げた。
すると、また、あの手この手でこっそり中古を手に入れていた。
今思えば、父親は自分もゲームをしてきたので、
息子を不憫に思い、隠れて協力した節がある。
そうして、私のため息を尻目にゲーム世界に一直線!
というある日、こけてそれをぶっ壊した。
ざまぁみろ。
つづく