というわけで、ゲームにまつわる親子の戦いは収束した。
ちなみに携帯を与えたのは、高3のときである。
これについても、「明治」と言われた。
下の子は、学校に行かないのでコミュニケーションツールとして、
高1から渡している。
それで、制限をかけていることに文句を言う。
友だちにも、お前の親はおかしいと言われているらしい。
なかなか、教育方針の実現は難しいもんである。
下の子は、ゲームについて上の子と親の戦いを見ていたので、
無駄な戦いを回避して、じっと我慢していた。
そして、中学生になったとき、「当然ですよね」という雰囲気で、
要求してきた。
上の子に買ってやったので、仕方がない。
とりあげていた3DSを彼に渡した。
だが当然、彼もゲーム時間を守らなかったので、
ある日、私はブチ切れて、それをトンカチで叩き割った。
あきれた息子は、それであきらめた風を装っていた。
結局その後どうなったか忘れたが、一つ言えるのは、
ゲームにはまらなくて済んだ、であろうか。
はっきり言って、ここまでする必要は全然ない気がする。
よかったかどうかも、さっぱりわかんない。
私自身が、テレビは1週間で30分だけという教育方針で育ったことが、
もっとも大きな理由かもしんない。
ある研究結果によると、1時間でゲームをやめられる子が、
もっとも成績がよいらしい。
自立心と自律心を兼ね備えている証拠だろう。
先日、写真家の篠木さんと電話していて、彼がこういった。
ゲームの世界では、どうやっても自分は主役になれない。
だけど、薪が割れただけで、「やった!」っていう主役になれる。
これは名言ではなかろうか。
自分の操作で結果を起こすのは、媒体であるゲームのキャラである。
そしてそれは、他人がプログラミングした世界の枠内から出ることはない。
だが、薪を割るのは、心が連動した自分と言う身体である。
ここにある「実感」は、大地に根を下ろしている。
秒単位で次々と「快」を得ることはできないが、
深々と自分。
どうすればいいですかね。
どうすれば、ゲームという麻薬から、いったん子どもを解放できますかね。
警察の生活安全課で多くの少年少女を見てきた方が、
ゲームが2番になれば大丈夫、1番を見つけることが大事、
と言っていた。
ここ、大事かも。
そうすると、0、1、2歳は、めちゃめちゃ大事ですね。
テレビと動画、頼むからずっと見るのはやめてほしいです。
すでに、その功罪が子どもたちに見える。
頼むからやめて。
ティッシュ箱一つで無限に遊べるのが子ども。
とにもかくにも社会の課題。