年中さんで、ずっと盛り上がっていたこおり鬼。
しかし、苦しさはその一週間前から忍び寄っていて、
まぁ、なんとかM先生のやる気でつながっていた遊び。
そこで、ドウモト園長、
「今の、年中さんのこおり鬼を診断してください。
今、どんな状態ですか。」
と投げかける。(キツイのね~、相変わらず。)
すると、先生たちもちゃんと苦しさを感じとっていたことがわかりました。
苦しいというのは、「飽き」が来ているのに、他に持ち駒がないから、それだけやっているという状態。
河邉先生がいうように、子どもは遊びに新奇性を求めます。
予測可能なパターン性と、変化、発展といった新奇性が遊びには必要です。
だから、鬼遊びもずっと同じことをやっていては、飽きてしまう。
飽きるともちろん、子どもの動きはとまります。
保育者自身が手持ちのコマを増やさなければ、臨機応変に活動を変えたり、弾力性を持たせて、遊びの場を魅力的に維持していくことができません。
そこで、N先生と考える・・・。
何がいいだろう。
ところで、こおり鬼というのは、実にいい遊びで、
「いい」というのは、ぴったりという意味で、そもそも鬼遊びなんていうものを幼稚園以外でやることがまずない子どもたち。
最初に見せる反応は、「追いかけられるのが いや」というものです。
鬼にタッチされようものなら、この世の終わりかのようなショックを受け、
しっぽとりでしっぽを取られようものなら、手がもがれたかのように感じてしまう。
何かオンリーワンな自分が汚されてしまったような感覚をもつようなのです。
そこを、「なんでもないさ」と乗り越えていってほしい、それが保育者のねがいです。
それは毎日の縮図で、嫌なことっていろいろあるけど、いつまでも続かないし、
「なんでもないさ」なのよと、一歩動いてみれば、いろいろ開けるのよ、と、
そんなねがいも映ります。
それで、こおり鬼というのは、
タッチされてこおりになっても、仲間がタッチしてくれれば生き返ることができるので、この世の終わりにならなくて済み、
さらに、追いかけられるという受け身の立場だけではなく、「助ける」というやりがいのある立場も含まれている、
という点で、実によくまわる遊びなのです。
これで、追いかける役にこだわる子が、そのこだわりを捨てることができ、
「タッチされる」ことでこの世が終わる子に、終わらないことがわかる、
というわけです。
そして、展開が早い。
子どもにとっては魅力的な遊びです。
さてしかし、3週間近く、毎日毎日、こればっかりじゃあね・・・。
で、N先生の発案、普通の鬼ごっこ。(と、陣取り)
なるほど。
これも、展開が早くていいかも。
若草幼稚園では、園庭で鬼遊びのメンバーがわかるように、
知らない子同士、異年齢で混じっても、鬼と子がわかるように、
赤と青のたすきを利用しています。なにせ、200人以上いるからね。
これがあると、一目でメンバーと、鬼と子がわかります。
問題は、鬼が早い展開で変わる遊びだと、
たすきをかけ直すのに時間がかかって、いいリズムが崩れてしまうということ。
それをN先生に指摘すると、
・・・・。
うーん。
鬼バトン。
なるほど。
これなら、タッチしてもすぐに交代できる。
遊びのリズムがくるわない。
さっそく次の日、黄色と黒のシマシマ鬼バトンを作ってきたN先生。
結果は大成功。
いいな~、こういう創造的保育。
これ以降、いろいろこだわらずに、新しいエッセンスを取り入れて鬼遊びが工夫されている様子。
いいな~、子どもの意欲と一緒に先生の心と身体もまわっていく。
せんせいのすてき。