前評判が最高のクラス、総練習でガタガタ。
うーむ。
こりゃいかん。
と発破をかけにいく。
「なにしろ、まみこ先生はいろんなうわさを聞いててね。
・・・、なんでも竜の踊る姿がめちゃめちゃかっこいいとか、」
子ども「うんうん」
「ステキな小学生がすばらしいランドセルを持っているとか、」
「おうよ!」
「かっこいい侍がいるとか、」
「あったりめ~よぉ!」
なんとも得意げな、「何を今さら」と不適な笑みを浮かべる子どもたち。
そこで、ひとつ。
「でもね、全然おもしろくない。」
しーん。
「なにやってるか、全然わかんない。」
どーん。
奈落に突き落とされてしまった・・・。
そして、次のとき、とっても頑張っている子どもたち。
恥ずかしがり屋さんでも、とっても大きな声を出して、
最高に頑張ってる。
だけど・・・。
だめだね。
で、担任の先生と構成について話し合う。
結局、配置がごちゃごちゃしていて、子どもにわかりづらいこと、
子ども同士のやりとりが希薄だったこと、
それがそのまま、子ども自身が面白さを感じることができない結果を引き起こしていたことが分かった。
ふざけたり、他の友だちに興味が持てずトタトタしていたり、まとまり感がないのは、そのせいだ。
大至急、考え直す。
曲も、動線も、考え直す。
あと二日。
でもできる。
ぜったいできる。
と、担任の先生に発破をかける。
担任の先生、超集中。
そして木曜日。
先生が言う。
「劇が大変身します。」
子どもも気合いが入り、曲や配置が変わってもついてきている。
何より、子どもが「おもしろい」といっている。
引き締まった顔。
「やってるぞ、」って顔が見える。
そして担任が反省。
「おもしろくなかったがや。」
保育は本当に難しい。
「木を見て森を見ず」ってことが知らず知らずのうちに起こっていて、
気が付けば、取り返しがつかないことになってる。
取り返し、つけるけどね。
そして金曜日。
子どもはやる気なのに、先生は昨日の気合いモードを引きずり、
子どもを引っ張るから、子どもとリズムが合わず、わけわかんなくなってきている。
そして園長が怒る。
今日はいいんだよ、褒めるモードで、落ち着きモードで。
しかし、愛にあふれたクラスだから、
こんなことはどってことない。
最後には、「先生がんばりよ。」と子どもに言われ、
担任が泣く。
まったくのう。
園長は、担任について、「んのぉおお」と思っているけど、
これもすてきの一つなんだよね。(今思えば・・・。)
あぁ。
日曜の本番、どうなるかな。
そして本番
子どもたち、とっても頑張りました。
華やかで、見せ場のある、それなりにひきしまった劇ができました。
何より、子どもたちが「やった!」という気になれたことがよかった。
そして、保護者の方の目を惹いたのは、
日ごろの遊びから子どもたちが創ってきた、
さまざまなイメージを具現化したモノの数々でした。
なんだかんだありすぎたけど、
結局このクラスを支えたのは、日々の創造性にあふれた保育と、
保育者と子どものつながりでした。
そして、まわりの先生たちは、
「とても他人事とは思えない」という気持ちと、
そもそもの心で、半泣きの先生を支えました。
結局のところ、ただ日ごろの遊びをつなげれば、劇ができるというものではなく、その「劇」というものをどう構成し、演出するかというところに、我々保育者のプロとしての役割があるという事が、どの先生にとっても実感された生活発表会となりました。
そのモデル的失敗、すなわち運命の生贄が一人おったというわけです。
どのクラスにも、大なり小なり危機はあったし、前日、当日にも変更はありました。それを子どもたちが受け入れ、自らの問題としていったのは、全て、先生と子どもたちの信頼関係が軸にあります。日常の保育こそが、全ての鍵を握っています。
成功して、本当によかった。
子どものすてきに先生のすてき。
若草幼稚園のすてき。
2013年度、生活発表会でした。