私は、「理解」という概念を現象学的社会学者のシュッツから学んだ。
それによると「理解」とは、自己解釈である。
つまり、まなみちゃんやほなみちゃんを理解するというのは、
自分というフィルターを通すことである。
さて、そのフィルターは、どのようなものであろうか。
網の目はどのくらい?
15の穴?30の穴?1000の穴?
その質はどのようなもの?
なめらかでやわらかい?
それとも、かたくて、とげとげしてる?
薄汚れてなくて、いつもきれいだといいね。
色は何色だろう。
虹色だといいね。
そして、
いっぺんに、どれだけ入る?そこに。
自分のフィルターがどのようなものであるのか検分して、
自分のフィルターに磨きをかけること。
厳しい道。
ちっとも満足がない道。
だけど、求めて歩む道。
せんせいのすてき。