「本当に、うちでいいんですか。」
これが、しょっぱなの私の返答だった。
写真家の篠木さんに、
定期的に園に来てもらう話が持ち上がった時のことだ。
篠木さんの写真は、泣ける。
何に泣けるかというと、子どもの魂の力強さと美しさである。
私は、この写真は、昭和初期に生まれた人だからこそ、
撮れるものだと思った。
子どもは現代の子だが、撮る人間のまなざしが現代ではないということである。
是非、現代書館から出版されている「こどもは・・・」を見てほしい。
といっても、ネットで今や1万円以上しますけどね。
みなさんは、松田優作の若いころとか、
萩原健一の若いころとか、ご存知だろうか。
名前も知らん?
いやぁ、今の化粧が似合う男とは、全然違います。
男です。
野性まくりです。
篠木さんは、年を重ねちゃったので、野性まくりではない。
まぁ、それはよかろう。
魂が、太くしなやかに動く人間にしか撮れない、
子どもの一瞬。
園長3年目のそのとき、私はまだ自分の園に違和感を持っていたから、
正直、彼のまなざしに見合う子どもたちの姿があるのか、
確信がなかった。
一方で、篠木さんは、私の感じる心を信じてくれており、
私の心が深く動く写真を撮れるかどうか、
と、ご自身で思ってくれていた。
こうして、葛藤と創造の芸術的プロジェクトが生まれた。
真のまなざしというフィルターを通ることは、
どこかで身を切られるように辛く、
そして、あまりにもありがたいことだった。
篠木さんと奥様のブービーさんのまなざしは、
子どもの心の自由を即座に感じ取るセンサーであり、
私は、常に、まな板の上のコイ状態であった。
今でも、もちろんそうなんであるが、
今は、葛藤を超えた何かが、生まれようとしている。
それまでの間には、たくさんの、本当にたくさんの対話があった。
対話を重ねられる関係ほど、ありがたいものはない。
子どもはどこにいても、子どもであり、
かけがえのない一人の人間である。
だから、どんな子どもにも、最高の一瞬がある。
それは間違いない。
けれど、そんなふうに輝くときとは、
どんなときなのだろうか。
それは、彼らの魂が自由に羽ばたき、
その心がシンプルな色に満たされているときではないだろうか。
躍動する身体に宿る心の色、
知的好奇心に満たされた心の色、
物事に集中しているとき、よろこびに満ち溢れたとき、
努力の結果が実り、達成感と充実感に満たされたとき、
そして、悲しみや怒り。
心がいろんなふうに染まり、輝く。
その輝きを生む条件というのが、やはりあるはずである。
そこに、教育の質が問われる。
というわけで、私はいつも、戦々恐々としているわけである。
はははは。
今度、3月3日から3月8日まで、
東京の新宿御苑、キタムラカメラのギャラリーで、
篠木さんの写真展が開かれる。
題して「働き者の子どもたち」。
人の生活を営む、ラオスの子どもたちの写真が収められている。
限りなく、子どもの可能性を開いてくれる写真展である。
きっと、子どもの生きる力の本質が、映し出されているだろう。
可能な方は、是非、見に行かれてください。
芸術は葛藤から生まれる。
だから、きっと若草幼稚園から、何かが生まれる。
の、はずであろう
さぶろうさんしろう。