幼児教育は、けっこう、大変な状況にある。
幼稚園教育要領、すなわち法律において、
幼児教育は、環境を通して行われるものであり、
遊びを中心的活動とすると明示されて以来、およそ30年近くになる。
日本の幼児の多くを担う私立幼稚園は、
建学の精神を盾に鼻で笑っていたが、文科省がブレないので、
笑えなくなってきた。
しかし、世の保護者は相変わらずである。
「できる」を目に見えやすいかたちで求める。
冷静に見れば、調教以外の何ものでもないことから生まれる成果らしきものが、
すばらしい宝石のように見えるらしい。
その曇った眼の底にあるのは、なんだろうか。
不安かな。
上昇志向がもつ階級的戦いかな。
そこに、マスメディアは、なんのてらいもなく拍車をかける。
本当は、どの保護者もシンプルに自分の子どもが大切にされることを望み、
先生に愛されることを望んでいる。
そして我が子の生き生きとした幸せそうな表情に安心する。
本当は、そこだけである。
だが、入り口はそうではない。
入り口では、「できる、形」を求める。
そこで経営を第一に考える私立幼稚園の経営者は、
保護者のニーズに応える教育をする。
法律的なプレッシャーをヒシヒシと感じながら、
(なかには一ミリたりとも感じてない園もたくさんあるが、)
つぶれないために、「させる」教育を続けている。
さて、学生は、遊びが大事であると学校でならいながら、
「させる」教育の世界に入り、
本来の理念や価値を感じないで済むように鈍感さを身にまとい、
保育をする。
だから、続かない。
そして、我々の未来である子どもは、
こんな言葉は本当に使いたくないが、
調教の世界で、ほんの小さなころから、
自分を出さないことを学び、感じないことを学ぶ。
保育する側もされる側も、心をそこに落とさないで、時間を過ごす。
無気力な子が育って当然。
いつも、自分の心と関係ないところで評価にさらされて生きてきた子が、
弱くて当然。
「ぼくは、これでいいんだ。」
という自信をいったいどこで手に入れるというのだろう。
いささか、悲観的であるが、うそではない。
しかも、問題はまだまだある。
養成校に幼児教育の専門家がいないとか、
役人に幼児教育出身がいないとか、
政治家に幼児教育分かってる人皆無とか、
いろいろね。
それでも子どもは生きている。
我々の考えや思いの範疇を超えて、
しなやかに、たくましく育っている子はたくさんいるだろう。
けれど、私は、なんとなくやりきれん気持ちになる。
とりあえず、おわり。