新人を育てるには、その人に惚れるところがなければならない。
なぜなら、それを持っていないと、育てきれんからである。
そうです。
太古エジプトの古文書にも、
「今のわかいもんは・・・。」という記述があるらしいので、
おばちゃんは、そうしたもんかもしれん、
を超えているのが現代ではないか?
笑いでは済まされん出来事が、
わんさかある。
例えば・・・。
が、言えんね。
そうね~。
当たり障りなく言えば、
「できました。」「やりました。」が、
「それか!!それでか!!やりなおしっ!!!」
とか、汚れ仕事を無意識でスルーするとか、
事務処理をしつこく間違うとか、
いろいろいろいろね。
だが、若さと言うのは、それだけで、ものすごくすばらしい。
まず、無理が効く体力と気力がある。
その無理を通して、不死鳥のごとく飛躍を繰り返す。
身体が弾んで、子どもと呼応する。
純粋に、子どものすることに驚き、
感動し、響き合うことに喜びを感じている。
「初心忘るべからず」とはよく言ったもんで、
新人には、新人にしかない美しさがある。
だが、「新人」というものは、終わる。
そうして、新人ではない保育者になる。
なかには、惰性と驕りと自己中心性でもって、子どもを引っ張ったり、
自分のいうことを聞かない子どもを否定するようになる。
こわ~。
そうはならないために、めちゃめちゃ鍛えられるのが新人である。
したがって、いろいろめった切りにされている新人たちなのであるが、
先ほど言ったように、新人たちは不死鳥のごとくよみがえり、
成長を続けている。
まるで、スポンジが水を吸うようだ。
それで話は戻るが、どこに惚れるか、ということである。
例えば私は、ある新人の「真心」に惚れている。
それは、無垢で、純粋で、美しい。
その真心が知性と共に、大きく膨らむことを期待している。
それから、ある「頭脳」に惚れている。
それは、他の人が見えないものが見えていて、
とても豊かな保育を創造する。
そこには、思いやりと温かさがあるから、子どもには大人気である。
(だが、この頭脳は、オンオフが激しすぎて、
周りがついていけんときがある。)
そしてある新人の軽やかなフットワークにも惚れている。
子どもの全てを受けて返すその軽やかさは、見ているだけ清々しく楽しい。
彼女は、本当に子どもと遊んでいる時の汚れ方が完璧である。
子どもとリズムの合う人なんだろう。
また、こじんまりしたプレッシャーのない佇まいに同居する、
揺ぎなさにも惚れている。
それは繊細で豊かな感受性に裏打ちされており、
鋭い知性ものぞかせている。
美しさを追求する心と知性が、弱さを克服する原動力となるだろう。
また、大きく太く健康な責任感にも惚れている。
それは、何があってもブレない軸を持っている。
この責任感には、自分の私利私欲を超えた公平さや平等さ、
そして真実を感じとる力が見える。
見た目はおっさんの雰囲気がどこか漂うが、
悩み方は非常にかわいらしい。
だから、なろうと思えばアイドルにもなれるかわいさがあるのに、
それをみじんも感じさせない。
非常に残念である。
今年の超新人たちも、大変すばらしい。
どちらも誠実で熱く、温かいハートを持っている。
ある新人は、歓迎会のあいさつで、
「わからないこともわからないような状態だけど、
必死でくらいついていきます。」
と言った。
これは、園長にとって何よりもうれしい言葉であった。
おそらく、一生忘れないだろう。
私が新人にほしいのは、こんな言葉である。
もう一人の新人は、採用面接で、
「悲しかったことはたくさんありましたが、
そのつど、両親や友達に支えてもらって今があるので、
悲しかったことは、ありません。」
といった。(ちょっと、違うかもしんないけど・・・。)
こんな答えを、しっかりと話せるって、
すごくないです?
それで、すっかり惚れましたね。
日々自分を問い、まわりに感謝しながら生きている人の言葉であろう。
そんなわけで、日々発狂する出来事が満載であるとしても、
彼らは、ダイヤモンドの原石である。
まわりに迷惑をかけまくる宝石を、ものすごいスピードでカットして、
あらかた形を作ったら、大事に少しずつ、みんなでカットして行って、
そして、何より本人に自分でカットしてもらって、
美しい宝石になればと思う。
新人のすてき。