新人たちの頭の体操で、
自由について考察した。
子どもの心の自由を尊重できる保育者になってほしい、
という願い、
そして、その自由がもたらす厳しさに向き合える子どもに育ててほしい、
という願いからである。
幼児教育の中心的学びが遊びであるのは、
自由を通して、自分をつくるためである。
「人格形成の基礎を培う」とは、そういうことだ。
コマがやりたいと思ってできないのも、
そのために悔しい思いをするのも、
乗り越えて喜びを勝ち取るのも、
自分が選んだからこそ味わえる事実とそれに伴う感情である。
それで、いろいろと話し合っているうちに浮かび上がってきたのが、
自由って、それほどありませんよね。
ということだった。
ちょっとおもしろかったのは、
自由である状態というのは、
「他人の目を気にしないで、好きなようにする。」
「相手のことを考えないで、自分の思いのままに動く。」
ことであり、現実それは難しいというような話が出たことである。
日々、気を遣って、生きてるんやな、
と思った次第である。
で、結局、哲学的な問いというのは、
考えるステージで変わってくる。
例えば、政治。
全世界を竜巻するコロナウィルスの対応には、
政治の在り方がよく現れている。
簡単に自由を奪える仕組みの国ってあるんだなと、実感だった。
信頼を勝ち得ているのは、根拠を示せる対話型の国のようだ。
新人たちに、高校と短大と今と、どっちが自由か、
どのように自由の質が違うのか聞いてみた。
今の方が自由であると答えたのが主に3年目。
今の方が自由でないと答えたのが直近の新人かな、主に。
どちらも腑に落ちる答えである。
社会に出て、自由と責任が一対であることがわかり、
もう、囲われていない自分が見えてきた3年目と、
囲われていたけれど、守られてもいたあの頃とは違い、
社会人として、この職業を選んだものとして、
身につけなければならないことが急激に襲ってきて、
自分を縛っていることを実感する超新人。
いずれにしろ、彼らは、
「自分で自分のことを決める」世界にやってきたのである。
だが、なかには、まだ学校気分で、
社会に出るとはどういうことなのか、分かっていない者もいる。
仕事は、やるかやらないか、
できるかできないか、それだけである。
3年間新人と呼ぶのは、まぁ、縁側で許す、
ということかな。
新人のすてき。